闇の左手

ISBN:415010252X

「余は、おまえがいったい何者なのか知らぬ、ミスタ・アイ、性的奇形か、人造怪物か、天空からの来訪者か、だが反逆者ではない。おまえは道具なのだ。余は道具を罰しはせんぞ。道具は腹黒い職人の手にわたれば、わるさをするがな。おまえに忠告してやろう」
アルガーベンは妙な自己満足をもって忠告という言葉を強調した。(略)
「だれの道具にもなるな、ミスタ・アイ」と王は言った。「堂派には近づかぬがよい。おまえ自身の嘘をつけ、おまえ自身の行動をなせ。そしてだれも信じるな。わかったな?」
「闇の左手」P47より

再読。
数日かけて読んでました。いやー圧倒的な密度がすごい。読み終わってしばらくするというのに、頭の中に凍りつくような世界が渦巻いている。平坦な、いかにも<冬>という感じの文体には、時々飽きることもあったけれども、それでもすごい迫力でした。淡々とした文体は「記述」という形をとっているからだろうか? おそろしい。闇のようだ。吸い込まれていきそうな気がした。


本書に出てくる人間は、主人公ですら、すでに歴史の中の一つの点になっている。だからこういう風に、淡々としているのだと思う。そういう視点を私は嫌いではないけれども、あまりにも記号論で割り切れるので、もっと無駄なものを! と望むのは贅沢というかお角違いなのかな?(多分そうなのだろう)。


波乱に満ちた冒険譚なのに、主人公達は感情表現が極端に少ない。そのせいで最初は登場人物の性格が分からないのだけど、代わりに世観設定の緻密さが浮き出るようだった。
ゲンリーなんて家族も捨てて、浦島太郎になることを覚悟して、たった一人で見知らぬ惑星に降り立った。エストラーベンも、反逆者になって国を追われながらも新しい扉を開こうとしている。なのにそれほど凄い事をしているように思えないほど落ちついている。
でもこの環境設定でキャラが派手だったら、バランスが取れないだろうからこれで丁度いいのだろう。環境が派手な時はキャラをおさえめに。逆に平凡な環境、平凡なストーリーの時はキャラを派手に、がちょうどいいバランスなのかも。
それに、この小説の真の主人公は、きっともっと大きな歴史そのものなのだろうから、主人公達が派手に目立つ必要はないのかもしれない。


それにしても、ケメル期というのは色っぽいね。「限定されている」という状況は、それだけで心的興奮をうながすのかもしれない。心語で話しても、Lの発音が出来ないのが可愛かったです、エストラーベン。どうしてこういうのを「可愛い」って思うんだろう? 不思議。でもこういうエピソードは好き。
最後にエストラーベンがああなってしまって私は悲しかったのだけど、「幻想物語の文法」という本に書かれていた事を思い出して諦めました。

「幻想物語の文法」には、世界最古の叙事詩、「ギルガメッシュ」についての記述がのっています。


ギルガメッシュは、自分と対である英雄のエンキドゥと戦い、その戦いの中で相手を認め合います。しかしエンキドゥは、やがて2,3の冒険の後に死んでしまうのです。"エンキドゥが死ぬのは、おそらく英雄の身代わりと、生け贄としてである。双子伝承は、片割れが一方の事業貫徹の犠牲となって昇天とするモチーフと結びついている"
――だそうです。
なんとなく分かるなあ。物語の最中に、どうしても犠牲になる必要がある、という人物が出てくる時ってあるんだよね。それによって昇華される何か。うーん、だから仕方がないのだろうけれども悲しい。


余談だけど、エストラーベンの一人称の「」は、最初ふきだしちゃったよ。いや、別にいーんだけどね。でも訳者は何故この一人称を選んだのか教えて欲しい。宰相だからか。
エストラーベンが通常時に性差を持たない事はこの物語の重要な要素なので、一人称に明確に男性性を感じさせる「予」を使うのは、グィンの意図にそうものだったのかが気になります。