「生物進化とハンディキャップ原理」を読んで親切と偽善について考える
- 作者: アモツザハヴィ,アヴィシャグザハヴィ,長谷川眞理子,Amotz Zahavi,Avishag Zahavi,大貫昌子
- 出版社/メーカー: 白揚社
- 発売日: 2001/06/10
- メディア: 単行本
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生物が自分にとって負担となるハンディキャップを負ってまで、利他的行動を時にとるのは何故か、という内容でした。
この本によると、生物(人間も含む)は、多くの負担を背負っている姿を周りに示す事は、自分はまだまだ余裕がありますよと、敵に自分の優位性を示し、生存しやすくさせるとあります。こう書くと身も蓋もないけど。
抜き書きしてみると、
ハンディキャップの原理はたいそう単純のものである。つまり浪費する者がそれによって、自分が浪費しても余りある資産をもっている事実を確実に証明できるからこそ、浪費は理にかなっているとする原理だ。P355
たとえば人々は利他的の人間を定義するとき、報酬を期待しないで他を助ける者と言うけれども、報酬とか利益とかが必ずしも物質的な形をとるとは限らない。
利他的な行動は明らかに、その行動をとれる者の能力を表しもするし、人にもそう感じられるのだ。私たちの誰でもが皆、財産や所有物の一部を寄付するようなゆとりをもっているわけでもなく、人を救うため自分の命を投げうつことができるわけでもない。
他の人の福祉のために努力する行為は、その利他者の資質を示して社会的地位を高め、ひいては成功のチャンスを向上させる。―P350
――この文章を読んで、何故時々偽善を強く憎む人がいるのかを考えた。
まあ誰だって偽善は嫌だろうけれど、特に嫌がる人もいる。
この本でいうと、
人が人を助けるという利他的行為は、助ける人物には助けるだけの力(地位、金、人格、余裕など)があるという事を、周囲に示す(=見ている側にとっては、余裕があるの見せられる、見せ付けられる)状況になる。
それが本当に他者のためならば良いが、そうでない場合は、利他的行為のフリをしつつ、一方的な優位性を示している場面を第三者として見せられるのは、気持ちの良いものではないだろう。
私自身は、受けとる側にとって恩恵があるならば、利他的行為の理由を他者が厳密に求める必要はないのではと思っています。(まあ明らさまだとアレだけど)
送り手がどう考えているかよりは、受け手にとってどう受け止められたか、の方を重要視したい。
ただ、自分も余計なお世話をしてしまうことも多く、また自分の行為が本当に役に立っているのか確認する事もサボってしまう事もあり、その差が分かる客観性を忘れないようにしたいと改めて考えた。