「認知哲学―脳科学から心の哲学へ」ポール・M・チャーチランド

認知哲学―脳科学から心の哲学へ

認知哲学―脳科学から心の哲学へ

意欲的で結構過激な本。心=脳をパターン変換装置とみて、全てはベクトルコードで表現されうる、と本書では説いています。
例えば、人間が自分の感じた味や香りを上手く言葉で表せないのは、言語におけるコード化方法と神経系におけるコード化方法が根本的に異なっているから。
言語は有限だけど、神経系では組み合わせ方式の表現体系が用いられる。それによってほとんど無限のパターンが出来る。


また、何故フロイト派が廃れたかも説明している。それによると、問題はフロイトが無意識の認知過程という存在を措定したことにあるのではない。
問題は、常識的プロトタイプをもって、無意識の認知活動を理解するときにも適用できる一般的モデルと見なそうとしたことに問題があるというのである。


――成程ね。つまり、無意識という存在が、意識的に存在するのと同じ因果的構造を持っているわけがない、というわけだ。なぜなら認知活動というのは、ひとつの活性化ベクトルを別の活性化ベクトルへと変形する過程だから。
ニューロンの活性化レベルベクトル」が基礎単位であり、無意識は「文章」に出来るようなものではないと。
うーむ。
なんていうか、ダイナミックだね。

他に気になった所は、

・社会的性質は自然と、いやがうえにも、身のまわりの環境の社会的特徴に注目していくことで出来ていく。それは幼児期の非常に早い段階で起きる。幼児が活性化空間を分割していく時には、自然的、物理的カテゴリーにだけにはとどまらず、社会的カテゴリも形成されていくのである。p167

――つまり、問題は脳の動きというよりは、「注視」の問題なんだろうね。社会的でない人は、社会的な能力が無いのではなく、「社会的な事柄に注視する能力」……この本の言葉でいうとベクトルかな。の力が弱い、と。活生化されてないという事になる。何故だろうか。「必要でないから」かな。
「言語野」のような「社会野」は脳に存在する、とこの本では書いてあります。すでに二、三の領域が確認されているそう。


他には、ボスウェルの例が面白かった。ボスウェルはウイルス感染により、左右の海馬が両方とも破壊されてしまった。
彼は学習された技能は待続するけど、学習したときのことについては完全に忘れてしまう。
自分にその技能が備わっていることさえ忘れてしまうのである。そして、自分がそのような認知的喪失についても気づいていない。何度会っても初対面だと思う。
彼は陽気で社公的。自分にそのような事が起こっていることさえ気づいていないという。


海馬は短期記憶を長期記憶へと転換する際に、大きな役割を果たしています。
「そういう事が起こっている」という事さえ忘れてしまうのが凄い・・。